2005年05月15日

the Fall of Man

昨日はバッチリ不登校しました。なんかとってもスカッと&サワヤカな気分になりましたよ!ある程度のカタルシスを得て満足したので、月曜からはまたお利口さんに戻ります。時々このように不登校セラピーをする必要があるみたいですね。

今日は今から一晩中、かりそめの快楽に耽ろうと思います。酒とタバコと仮想現実。イッヒッヒ。

前から考えてたんですけど、人間には根源的に、堕落への欲求があると思うんです。二度寝とかギャンブルとかその最たるものじゃないですかね。やめられない、とまらない、の類です。堕落という悪徳に、怖いもの見たさで没頭してしまう。僕はちょっとその傾向が強めな気がするんですけど、誰しも持っている欲求だと思います。てかそう思いたい。

明らかに理にそぐわない行動や言動になにか解放感を感じる、それが堕落の快感だとすれば、理というものは、生来人間が備えているものではなくて、後天的に自分に課される鎖のようなものなのでしょうか。世界にはいろいろな文化があって、その文化ごとに美徳が異なるわけですから、やはり理ってのは、後天的かつ社会に押し付けられたものである気がします。もちろん押し付けられた理に自分を委ねきってしまう、そんな思考放棄も気持ちよさそうですね。僕にはできませんけど。

ただ、堕落を恐れ、それ故憧れる気持ちって、なんか西洋的な感覚じゃないでしょうか。あっちだと、もう聖書の時点で、すでに堕落の快感が描かれてますよね。キリスト教で説かれてる道徳とかって、もう有無を言わさぬ感じで、あらゆることを、神の名の下に、善と悪に一刀両断してしまう雰囲気があるんですよ。神さまがおっしゃったから、って言えばどんなにエキセントリックな理屈でも受け入れてしまいそうです。
光が強ければ影も濃くなるわけで、厳然としたルールがあったら、それを破りたくなる欲求もそれだけ高まるんでしょうね。理有る故に理外の理亦た有り、てな感じです。


でも、昔の中国なんかだと、そんな話は聞いたことありません。僕の勝手な印象なんですけど、彼らの場合、いくら自堕落な生活をしているとしても、何も恥じることはなさそうです。乱暴に言ってしまえば、理が無い故に、堕落という感覚自体も無い。もちろん当時の社会にも遵守すべき理はありましたけど、みんながみんなその理を勝手に拡大解釈して、やりたいようにやってる、そんな印象があるのです。
「天命は我に在り!」
「ちげーよ、俺に在るんだよ」
「いや、俺俺!」
ってのが三国志の全てですよね。

彼らのこのユルユルさは、西洋の「神」という厳格な人格神の下では得られなかったでしょう。中国の「天」という非人格神が、自分の意思を天にのせて正当化できる土壌を作った、という気がします。うらやましいようなおっかないような、不思議な環境ですね。


自分の堕落タイムが無くなっちゃうので、今日はここらへんでバハハーイ。







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