2005年11月04日

悔吝者、言乎其小疵也

ほんとにね、ちょっとしたことだと思うんですよ。ちょっとしたことで変わっていくんです。

例えば、今、僕の家はかなり危険なレベルで散らかってるんですけど、 なんでここまでエントロピーが増大した部屋になってしまったかといえば、ちょっとしたことの積み重ねが原因なわけです。
脱いだ服をハンガーに掛けなかったり、灰皿の吸殻を捨てなかったり、読んだマンガを本棚に戻さなかったり、 最近はクソ寒いというのになぜか未だに扇風機が置いてあったり、そういうことが積もり積もって、 気がつくととんでもない状態になってしまっている。全部が全部、ほんの数十秒あればできるようなことなのにさ。 自分がちょっとした努力を怠った結果であるこの乱れきった部屋を見て、暗澹たる気持ちになってしまう僕。

つまり、今僕が抱えている憂いは、僕の犯したちょっとした過ちのせいなのです。
まだ僕の場合は、部屋が汚い、とか結構どうでもいいめの憂いなので救いがありますけど、これは万人の万事に通じるのではないか。

ちょっとしたサボリを積み重ねた結果、もう取り返しのつかないところまで堕ちてしまう人、ちょっとした不摂生を繰り返した結果、 致命的な大病を患ってしまう人。このような例は枚挙に暇がありません。

こんなことを考えていたら、ふとこの日記のタイトルにした文を思い出したんです。

悔吝(かいりん)とは、その小疵を言ふなり。

『易経』の中に収められている『繋辞伝(けいじでん)』 の一節です。
『易経』とは、皆さんご存知の通り、占いの書ですが、そんじょそこらの占いじゃありません。中国において約2000年間、 キリスト教国における聖書のような高い地位を得ている経典です。
また、『繋辞伝』とは、易の思想を哲学的に解説した部分であり、後の中国の世界観に多大なる影響を与えました。

さて、悔吝というのは、憂いや怖れを暗示・象徴する言葉。小疵とは小さな傷、すなわちちょっとした過ちのことです。
易においては、占いの結果は抽象的かつ詩的な文章で表されるのですが、その中に吉・凶・悔・吝・无咎(とがなし) といった、運勢に対する評価の語が含まれています。
例えば、占いの結果、『恆(こう)』 という卦の九四の爻が得られたとしましょう。
易経のその部分を参照すると‥

恆、亨。无咎。利貞。利有攸往。

九四、田无禽。
象曰、久非其位。安得禽也。

とあります。書き下すと‥

恆は、亨(とお)る。咎(とが)なし。貞(ただ)しきに利あり。往くところ有るに利あり。

九四は、田(かり)して禽(えもの)なし。
象に曰はく、久しきもその位に非ざれば、安んぞ禽を得んや。

簡単に訳すと、

恆の卦は、恒久的なものの象徴であるので、良く願いは通る。なんの問題もないであろう。 あなたの行動が正しければの話だが。その場合は、前進したとしても利が有るだろう。

(しかし、)九四が得られた場合、狩りをしても獲物は無いであろう。
いくらその場所に恒久的に居続けても、そこはあなたにとってふさわしくない場所なのだから、どうして獲物を得ることができようか。

といった感じでしょうか。
当然僕たちは文明人なので狩猟なんてしやしませんが、これはあるシチュエーションの象徴なので、もっと漠然と考えていただきたい。
要するに、あなたの求めるものは得られないであろう、というような意味です。
実はこのお告げ、ついこないだ僕自身がある懸案事項を占った際にでたものなのですが、はっきり言って絶望しましたよ。なんですか、 狩りをしても獲物無しってのは!僕の相談に対するピンポイントすぎる回答です。

でもここで投げやりになったりしてはいけない。易の良いところは、 だとか獲物無しとか言われるにしても、なぜ凶なのか、 なぜ獲物が得られないのかという理由を教えてくれるところです。すなわちそこに、僕にとってのより良い未来へのヒントがあるわけ。
僕が得たお告げの場合は、「そこはあなたにとってふさわしくない場所なのだから」という部分ですね。 つまり、僕が自分自身の努力で、僕にふさわしい場所へと向かえばいいわけです。

実際のところ、『易』とは、僕たちに様々な気付きを促すものではないか。予言とか予知とか、 そんなオカルトチックなものでは無いと僕は思う。

「悔吝(かいりん)とは、その小疵を言ふなり」、つまり、『悔吝』という憂いや恐れを表す言葉が占いの結果に出てきた場合、 それはあなたのちょっとした過ちが原因なのだ、ということなのですが、これってハッキリ言って当たり前ですよね。 ちょっとした過ちが重なることで憂鬱や恐怖が生まれる、そんなのは誰にでも分かることです。
また、「あなたの行動が正しければ利があるだろう」なんてのも、 言われるまでもなくみんなが分かっていることです。

でもね、分かっている、という事と、日々実践していける、という事は、似ているようで大きく違うんじゃないでしょうか。
易で自らの問題を占い、そこに示された言葉で自分のことを省みる、そうすることで、当たり前だけど重要な、 そんな基本的な法則を再確認することができる。気付くことができる。
易ってのは、そういう『自分再確認ツール』なんじゃないかと僕は思うのです。

というわけで、来たる11月5日・6日、要するに今週の土日ですね、 早稲田祭2005にて、『易カフェ』を開催します。
正式名称は『(占)東洋エキオスク衣料販店 』。 僕の所属する東洋哲学専修と、デザインサークル・ メイルズのコラボレーション企画です。
『易』による占いと美味しいお茶をご提供、さらに易をフューチャリングしたTシャツなどのグッズも販売する予定です。『易』 に関する展示なんかもあるよ。

僕は易者として参加するので、時間がある人も無い人も皆さんご来場下さい! 5日・6日両日10:00〜17:00本部キャンパス16号館303教室にてお待ちしております。

(占)東洋エキオスク衣料販店
http://www.wasedasai.net/2005/events/general/gakujutsu/01.html#09

早稲田祭2005公式ホームページ
http://www.wasedasai.net/index.html

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